健気で可愛かった!(≧△≦)
ある日、少年たちの手に届いた赤い風船には、山間に住まう少女からの手紙が付けられていました。
返事を求める少女に興味を抱いた少年たちは、返事を出すだけではなく彼女に直接会いに行こうと計画を立てますが、そこへ立ちはだかる不可解な事件とオトナの事情。
世界がどれだけ理不尽な都合で埋められていようとも、それが絶対的に諦める理由にはならないと信じている子どもたちの純粋さ。
願いを叶えるため、オトナの世界、常識の社会へ挑んでいく、少年たちのひと夏のイニシエーションの物語。
やー、もう、これは目が覚めました!
願えば叶うと信じているほど愚かではなく、世界は自分たちを苦しめる幾多の障害の上に成り立っているという悲しさを理解しつつも、それでも貫きたい意志があれば貫くことをためらわない。
そんな純粋さが行動を点火するのですよねーっ!
諦めるほうが、あるいは世界の流れに身を任せる方が簡単なのです。
加えて言うなら、少年たちは「幼い」ことを理由に、「無力さ」を理由に行動することを拒んでも誰も責めたりはできないと思うのです。
それもひとつの答えであり、当然至極な選択であると。
でも、彼らは諦めなかった。
自分たちが持つ「力」を武器に、仲間を助け、閉じ込められた少女に会いに行くことを。
うっひゃーっ!(≧▽≦)
なによ、この胸の空く痛快さは!
たしかになるほど、危機にあって作用する少年たちの「力」は作り手側の都合を反映したモノかも知れませんけれど。
んでも、こと物語において殊更に便利に使われているわけではなく、むしろその力の範囲と限界を事前に提示して、ここぞというところでその利用範囲を最大限に描写したことに賛辞を送りたいです。
設定とは、かくあるべきではないかと。
そして社会の中で子どもの限界を常につぶやいておきながら、いざ物語上最大の難関にぶちあたったときは大人にも限界があるのだと提示する手法がまた……。
限界を作るのは、子どもだとか大人だとか、そういうコトではないのですね。
限界を作るのはヒトであり、それを越えるのもまたヒトであるという。
「願いを叶える強い想い」というものがあるのなら、その限界を超えるときに行動を燃やす燃料になるからそう言われるのでしょう。
ラストの幕引きも秀逸。
子どもたちの行く末についてハッキリとした形を記すのではなく、輝かしい可能性を見せて、そして少年たちの変わらぬ友情を描いて終わるという。
うはー、もうねもうね(T▽T)。
わたしとしてはこの4人でカップル二組ができればなー……とか思ってしまいますが(穢れた大人脳)。
ま、そういう未来があってもいいですし、無くてもいいです。
少年たちの友情は、この夏、たしかにそこにあったのですから!